出世欲コントロール研究所

会社員最後の難題「出世欲コントロール」。戦え、支配せよ。戦いはまだ始まったばかりだ。Written by Ultraboy.

「オフィス=畜舎」論を超えるサムシング。

 

geometryofultraman.hatenablog.com

 昨日「オフィス=畜舎」論のことを少し書いた後で本棚を探ってみると、こんな本があった。きっと読んだのだろうが、自分の問題でないと覚えてもいられないようだ。 

仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)

仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)

 

 本書のキーワードノマドワーキング」は仕事哲学、場所論、時間術、そしてIT技術などをまるっとひっくるめた新しいライフスタイルのようだ。そうなるように書いてあるのもあって、読んでいる途中からすでに憧れが止まらない。なんだって、スタバでミーティング? 自宅で起業? 素敵じゃないですか。IT技術を駆使した未来人たちが跋扈している。自分は果たしてそんな未来人になれるだろうか、

 もしかするとこういうジャンルの本では当然のことかもしれないが、「ノマドワーキング」の本において「アテンションのコントロールの仕方」に多くのページが割かれているのが意外だった。「ノマドワーキング」では、仕事は完全に個人のペースに任されるため、個人個人が自分の「アテンション」をコントロールする必要がある、というのである。

 2009年初版の本なのでIT技術等については本書の活用法はもうすでに過去のものになっているだろう。しかし、「アテンション」はずっと「ノマドワーキング」の本質的な問題である。逆に言うと、「ノマドワーキング」でない「ワーキング」においては、「アテンション」の問題は前面に押し出されてこない。集団の力で「アテンション」の問題を避けているのである。第一に、集まっていると相互監視が働いて簡単にはさぼれなしい、もっと深いレベルに目を向けると、そもそも多数の人間が同じ方向を向いているだけで自分のその方向を向きやすいのが人間というものだ。誰一人知り合いがいないのに、受験勉強をしに図書館にいくのは、同じ方向を向いている見知らぬ他者の存在があってこそである。

 もしかするとそこに「オフィス=畜舎」論を超える何かを見出せるかもしれない。本書でも業務連絡ばかりだとうまくいかなくなったので、パーティや遊びで積極的に合うようになった集団の話が出てくる。正直に言うと、会社で顔を合わすよりもパーティで顔を合わすほうが僕にとっては余程ハードルが高いのだが、それはともかくとして、「同じ空間にいくつかの身体があり、そこに自分の身体が参加すること」の意義は、まだ十分にわかっていないのではないか、なんてことを考える。

「オフィス=畜舎」に出勤するメリット

 イケダハヤトさんがまた煽っている。社畜が「会社+家畜」なのであれば、社畜が通うオフィスは「畜舎」であるというわけである。まあ、その通りでしょうね。どちらかというと会社員ライフ肯定派の僕も、オフィスに決まった時間に出勤しないといけないというルールは不要だと思う。時間が人間にとって最高の資源であるなら、その資源を無駄に使うのがオフィス出勤というシステムの最大の罪である。 

www.ikedahayato.com

  とはいえ、僕はオフィス通いで重要なことを学んだような気がしている。要するに、オフィスに何を求めるか、である。オフィスには人間関係の清濁があふれており、頭でっかちの学生(つまり僕のような人間)が成熟するのには絶好の鍛錬場だ。少数の例外を除いて、オフィスでは公正も正義も大義名分でしかない。入社した当初はそれで頭にきたことが多かったが、オフィスは社会の縮図である。人間とはこういうものだ(そしておそらく自分もそういう人間のひとりだ)という認識を血肉化することができる。何をするにせよ、そういう認識からスタートするしかないのだ。入社1年目の秋、ドストエフスキーの「地下室の手記」を読み直しながら、空白に次のような文句をいつも書きつけていた。

「自分はいま理不尽と共にあるか? あるのなら安心するがいい。自分はいま世界に触れている」

 確かにイケダさん(とみんなが呼ばないのはどうしてだろう?池田信夫がいるから?)の言うように、業務遂行の視点で見ると、オフィスに人が集まると「ロクでもないこと」が起きる。ちなみにイケダさんが挙げている「ロクでもないこと」リストは以下の通り。僕にとっては、昼寝ができないのが一番きつい。

・通勤は多大なストレスであり、時間の無駄。その時間に仕事しろよ……って感じ。
・オフィスは騒音と介入の嵐。集中して仕事はできない。
・オフィスは出会いと創造性を奪う。
・オフィスに出社すると、勤務時間中の休憩(昼寝)が取りにくくなる。
・オフィスに集まると、人は無駄な会議を始めたがる。
・オフィスに集まると、無駄な人間関係のトラブルが発生する。
・オフィスがあると「時間稼ぎ」をする怠惰な人が現れる。
・「オフィス族」は、家族や自分の体調が崩れたとき、会社を休まざるを得ない。
・オフィスと通勤は会社の運営コストを跳ねあげる。
・オフィス出勤はスタッフの人生を縛る。
・などなどなど……。

  しかし一方で、オフィスはよく知る人間が次々と登場し戯れる「舞台」である。慣れるとおもしろいことを発見できる。時々、三谷幸喜の映画を見ているような気分になる。人間の強さと弱さ、ちょっとした良心と圧倒的なエゴ、人間関係の清濁を背景に、それぞれの人間が舞台の上で踊っている。もちろん僕も踊る。チャップリンも言っている、「人生は悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」と。オフィスも同じである。「オフィスは悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」。

 この認識を人に押し付けようとは思わないが、ことほどさように、オフィスに数年間通ってみるのも別に悪いことではないような気がする。自分で決断するべきは自分で決断すること、そしてその決断によって生じた結果は自分で引き受けること。この2点さえ守っていれば、失敗して傷ついてもいずれ傷は塞がるし、胸の内には痛みの記憶とともに教訓が残る。教訓は、頭でっかちの学生(まあつまり僕ね、しつこいけど)をそれなりに成熟した大人にしてくれる。僕はその道を通ってきてよかったと思っている。今後、同じ道を進むかどうかは考えどころだけれど。

出世欲コントロールという難題

 おそらく僕は恵まれた会社員だろう。会社で働き始めて丸6年が経ったとき確信したのである。今後、自分が会社でハッピーに働けるかどうかは、出世欲との付き合い方にかかっている、と。逆に言えば、他の問題(人間関係、業務の悩み)については、自分なりの付き合い方を見出しているし、それが上手くいっている。もちろん自分だけの力でそんなことはできない。会社員としてこれほど恵まれたことはあるまい。同僚の人の好さと寛容に感謝している。あとは自分次第。出世欲はほとんど自分だけの問題、自分がコントロールするべき問題だ。

 出世についてはよく考える。自分は果たして出世を望むのか。答えはその時々によって様々だ。昭和男児のように「出世は男の本懐であります」と叫びたいこともあるし、「出世なんかにエネルギーを使ってどうする?」と思うこともある。「結果的に出世したらいいじゃないか」と出世のことを考えないようにすることもあるし、「出世のために具体的に誰を抑えるべきか」と戦略を考えていることもある。

 僕は32歳。自己評価は当てにならないかもしれないが、自分の位置を明確にしておく。社内の同じ年齢層の人間を1番手(出世街道)、2番手(もしかすると管理職)、3番手(首切り候補)に分けると、僕はおそらく1番手の最下層に入っている。遅かれ早かれ何も変えなければ、いずれは2番手に落ちるだろう。

 この評価は、きわめて正当である。僕自身が僕を評価するとしても、ほとんど同じ位置にする。それなりに能力は高く人当たりもよいが、体調のこともありパフォーマンスの安定性が今一つ。バックアップが機能している状態なら役職に就けてもいい。しかしそれ以外の場合は、簡単に替えの利かない場所には置きたくない。僕は今まさに、そういう役職に就いている。

 会社員にとって出世と出世欲は、意外にデリケートな問題である。簡単に割り切れるものではない。正直に言って、僕は自分が出世を望んでいるのかどうかも分かっていない。入社当初は出世なんてどうでもいいと思っていたが、社内の人間関係に絡み取られ続けた結果、社内の出世も僕にとって自分の問題になった。これは良い/悪いの問題ではないだろう。会社にいる限り、自分のなかの出世欲と付き合っていかなければならない。そういうことだと思う。

 ある夜、会社からの帰る途中、電車の中で後輩の女性Dさんがこんな一言を言った。

「Tさん、本当にいいんですか。私すこし心配になってしまって…」

 Dさんは、彼女の同期である男性M君の出世を気にしてくれていた。後輩のM君は僕と同等の地位に就き、業務によっては僕に指示を出す立場となった。そのことをDさんは僕に「本当にいいんですか」と問いかけたわけだ。

 僕は返答に困った。Dさんが「本当にいいんですか」という言葉の意味が、最初わからなかったのだ。しかしDさんがポツリポツリと話すのを聞いているうちに、なるほどこれが出世という問題なのだということがわかってきた。出世とは、他者の目を通して起こる問題である。当たり前のことだが、そのことを意識していなかった。

 特に僕の場合は、Dさんという女性の目を通したことが大きかった。一言でいうと、僕はDさんが好きだったのである。僕はDさんの目を通して、はじめて出世という問題にぶち当たった。